お引っ越し<ちょうど3年前のいまごろに


誰もわかってくれないってこと、わかってた。
それに、そのとき誰もまわりにいなかった。
でもぼくは、いつものようにうしろにばたりと倒れた。
「いつものように」というのは引っ越しの度、の意。


前回は、まえの会社が倒産して最後の営業日のこと。
ちょっと切なそうに別れを惜しむ女子中高生の前で、
バタリとぼくは机を寄せた教室の真ん中に倒れた。
誰も気付かずツッコミもしなかったけれど宇野薫くんの真似だ。
そのころ既に彼は「星の王子様」と称されファッション誌の表紙なども飾っていたが、
いなかの中高生は知らなかった。
だから--というわけでもないが--突然ぼくが床に倒れ込んだときも、
な、なによ、ちょっと急に、って感じでビックリしていた。
しばらく横になって天井を眺めていたけれど、
「先生、大丈夫?」「頭、打った?」
そんなリアクションばかりだった。
ふぅぅう。
おおきく息を吐いて、かるく閉じた瞳をゆっくり開いた。
「天井裏から愛を込めて」
そんな唄もあった。愛なんかいらない、天井裏に1000円札の1枚もあれば。
それくらい追い詰められて、逃げるように引っ越した3年まえだ。

涙が零れそうになった。
そうト書きに書いてあれば無理矢理にでも泣かなくてはならない。
それが役者に与えられた仕事だからだ。
ぐっと歯を食いしばり、泣かないようにすることがぼくにはできた。
役者時代、さんざん師匠に「泣けって書いてあったら涙見せろよ」と叱られ、
「泣きたくないなら、無理に涙見せようとするなよ」と怒られた。
結局、どっちなんだ。ト書き通りに泣けばいいのか、
シーンの流れで涙は必ずしも見せる必要はないのか。
いまではわかる。
師匠が云わんとした「泣くことと泣かないこと」。
「涙を見せる演技と涙を見せない演技」。

もう必要ないのにぼくは、たぶんいまなら泣きたいときに涙を流し、
必要がなければ涙をおさえることができる。
そんな演技が日常生活では、かえって邪魔になることもあるのに。
涙はカタチ。すべて演技とまでは云わないけれど。

すこし足をバタバタさせた。
なにも変わらない。ここをぼくたちが去ってもきっとなにも変わらない。
バカヤロウ。叫びたかったけれど、すぐに
「バカヤロウは愛の言葉」というフレーズが浮かんだ。

愛なんてない。
愛していない。
愛されていない。
愛はここにない。

さよなら、バイバイ。
もう二度と戻って来ることはないよ。