スニッフィングとリタリン--そこに行き着くようになるまでの<1>--

おそらく日本じゅう探し回っても、マトモな医者なら100人が100人お薦めしないだろう。
でありながら、なんとなくその背徳の魅力に惹かれる若者は多い。
じっさいぼくもそうだった。たしかにハリウッド映画などでコカインを1ドル紙幣などで鼻からすすすーっと吸い込んでるサマは絵になっていた。


と同時にイリーガル・ドラッグには手を染めていなかったぼくには、まったくもって日常生活とかけ離れたことでもあった。
それがいまや日常生活に欠かせないものとなってしまったきっかけは、リタリンとの出会いであり、また--いまでも手元に置いて愛読している--鶴見済氏の『人格改造マニュアル』との出会いだった。

人格改造マニュアル

人格改造マニュアル

とくに後者は「脳をチューニングして、楽チンに生きよう」という帯のフレーズが、四面楚歌、八方塞がりだったぼくを惹き付けた。
極私的な「解決の糸口が見出せない」問題を抱えていた当時のぼくは、明らかに精神が破綻していた。
毎日が張り詰めた綱渡りのような生活で、決して交わることのない平行線を辿っていたその2本の糸がプツリと切れてしまったその瞬間、あっけなくぼくは壊れた。そして、いわゆるパニックに陥った。
逃げ出す場所もないことはわかっていたが、とにかく自宅に居ることができず、ただ部屋を出て近所をふらふらと彷徨っていた。

精神病院へ

ふとおおきな建物が目に入った。精神病院だった。
精神病院。
冗談で口にすることはあっても、自分がその門を叩くことなど想像だにしていなかった。
まして自宅のすぐ傍に、こんなに立派な精神病院があるなんて思いもしなかった。新居に引っ越して、ちょうど半年くらいだった。
とにかく、どうやって生きていけばいいのか、ありがちな表現をするならば「自分を見失っていた」ぼくは、ある日ついに一線を越えた。そして、もう7、8年の通院生活が続いている。その間に「おおきい」と感じていた病棟は改築され、いまでは数倍の規模になった。それだけ需要があるということだろうか。
担当の医師も変わった。いちばん人気のある院長が担当だったときは、診てもらうまでに労を要した。受付は午前9時から。だいたいぼくは午前7時まえには病院のまえで待っていた。病棟があったときは入り口の鍵が開いていたので診察券を入れて、いったん帰宅し出直すことができた。しかし改築中はプレハブの仮病棟のまえで、ただ待つしかなかった。運が良いと宿直のワーカーさんが気を利かせて診察券を預かってくれた。
それにぼくは歩いてほんの数分という恵まれた場所に住んでいたので--いま思うと、これも何かの縁だったのだろうか--様子を見に行ったり、自宅で待機することができたが、同じように並んでいるひとのなかには電車やバスを乗り継いで早朝から順番待ちをしているひとも多かった。

待合室で知り合ったひとたち

担当医は当番制であり、また薬を処方される関係もあって、通院する日は自ずと決まってくる。待合室で合わせる顔も馴染みになっていく。場所が場所だけになかなか挨拶を交わしたり、世間話をするようになるのは難しかったが、それでもたとえば喫煙所で一緒になる(煙草を喫う)、同じ検査を受けるなどを繰り返す内に言葉を交わすようになる。
まだぼくなどは初心者中の初心者だったが、話を聞くと大抵が皆入退院を繰り返しており、その都度いろいろな事情が伴い、また病院に戻って来たりしていた。同じくらいの歳の女の子とわりと親しく話すようになったが、彼女の入院生活/闘病生活は凄まじいものがあって、自分が苦しんでいることなど「甘え」以外の何者でもないような気がしていた。
彼女たち--入院病棟で顔なじみだった患者たち--の会話のなかには、当然ぼくにはわからない話も多く、いちばんが「○○さん、また入院だって」「‥‥さん、亡くなったってね」といった話題だった。
親しくなった彼女も入退院を繰り返しており、そのときはわりと平静を保っていたが、あるときを境に顔を合わせなくなってしまった。また入院したのであれば、まだ良いが‥‥。

クスリを要求するように

はじめぼくが処方されたのは、たしかデパスやリーゼといった、いわゆる坑不安薬*1だった。
そのうち前述の『人格改造マニュアル』や『薬ミシュラン

薬ミシュラン

薬ミシュラン

などで(余計な?)知恵を付け、医師に欲しいクスリのリクエストを出すようになった。云うまでもなく、処方されるべく症状を訴えて。
はじめはSSRIだった。プロザックの存在を知ると、早速個人輸入して服用を始めた。ただ輸入代行業者は暴利を貪っていたし、直接海外のサイトから輸入してもやはり経済的に厳しかった。ちょうどそのころ国内でルボックスが認可された。これ幸いとぼくは当時の担当医に話してみた。詳しくは覚えていないが「SSRIというのはどうなんでしょう?」とか「今度日本でも認可された薬があるんですよね」とか、そんな持って行き方だった。当時ぼくは一向に恢復の兆しの見えなかったため「それなら試しに」と25mgを処方してくれた。そのあとすぐに量を増やすように頼んで50mg錠に変わった。
さらに興味(?)はアッパー系へと発展しノイオミールアモキサンをゲット。
そして、リタリンへと行き着くのだった。

*1:かつては精神安定剤と呼ばれていた